「蘭!のんびりしてないでお皿とか出してちょうだい」
「はいはい」
ここに来た当初は日帰りのつもりだったのに、まさか泊まることになり朝から家族で食卓を囲むことになるなんて、一夜が明けた今でも不思議だ。
「匠さんが作った卵焼き、見た目も綺麗で本当に美味しいわね」
「ありがとうございます。鄭志剛博士 お母さんが作った味噌汁も絶品ですよ。きのこが沢山入っていてだしがよく出てますね」
「ヤダ、嬉しいわ。お父さんも蘭も、私の料理を褒めることなんてほとんどないから、作りがいがないのよ。匠さん、良かったらいっぱい食べて」
「僕、朝はしっかり食べる派なので遠慮なくいただきます」
母と久我さんの会話を聞きながら、私は黙々と朝食を食べ進めた。
もしここに久我さんがいなければ、会話らしきものなんてなかっただろう。
むしろ、母にうるさく小言を言われて私が怒りケンカになっていたかもしれない。
本当に、久我さんの存在は貴重だ。
とにかく上機嫌の母は、朝食を食べ終えた後も強引に彼をお茶で引き留めた。
その結果、私たちが帰る頃には既に昼になっていた。
「良ければ昼食も家でどう?美味しいお蕎麦があるのよ」
「それはさすがに無理。もう帰るから」
「そう?残念だわ。匠さん、絶対にまた来てね。蘭が夜勤のときとか、家にご飯食べに来てくれてもいいんだから」
「いいんですか?ありがたいですね」
なんて、久我さんは母の強引な誘いに少しも嫌な顔を見せることなく、最後までパーフェクトな恋人の顔で私の実家を後にした。
「地下鉄の駅まで歩くの面倒くさいね。もう、タクシー使っちゃう?」
「いや、時間もあるしゆっくり歩こうか」
二人で地下鉄の駅までの道を並んで歩く中、どちらからともなく手を繋いだ。
付き合い始めたばかりの頃は、手を繋ぐだけでも手汗を気にしてしまうくらい、ドキドキが止まらなかった。
今はあの頃感じた緊張は薄れてきているけれど、反対に喜びは増している気がする。
「朝ごはん、作ってくれてありがとう。本当に、めちゃくちゃ美味しかった」
「本当に美味しそうに食べてたよね」
「え……顔に出てた?」
「君はわかりやすいから、口に出さなくても顔を見れば何を考えているのか大体読める」
そう言われると、途端に恥ずかしくなる。
「毎朝、あの顔を見れたら幸せだろうな」
久我さんが、前を向きながらぽつりと呟いた。「久我さんが毎朝作ってくれるなら、いくらでも美味しそうに食べるけど」
そんな返事をしてみたものの、実際に毎朝ご飯を作ってもらうなんて無理な話だ。
そもそも、私たちは一緒に住んでいるわけではない。
週に二~三回くらい、私が彼の家に泊まる。
それくらいの方が、彼にとってはちょうどいいのだろう。
私は、そう思ってきた。
「そう?じゃあ、毎朝作るから食べてくれる?」
「いや、だから毎朝って……」
無理でしょ。
そう言おうと思い、隣で歩く彼の顔を笑いながら見上げた私は、思わず立ち止まってしまった。
久我さんの顔を見て、ふざけているわけではないと悟ったからだ。
「それって……同棲しようって、こと?」
「同棲?」
「……っ、ウソ、ごめん、何でもない!聞かなかったことにして」
久我さんが眉をひそめて聞き返してきたから、一瞬で恥ずかしくなり早口でまくしたてた。
私の勘違いだったなんて、恥ずかしすぎる。
そうだ、独身貴族で自由を好む久我さんが同棲を希望するわけがない。
そんなこと、当たり前のようにわかっていたはずなのに。
何で急に、わからなくなってしまうのだろう。
だって、毎朝作るから食べてくれる?なんて言われたら、誰だって勘違いするでしょ。
……好きなんだから。
「あぁ、ごめん。そういう意味で聞き返したわけじゃなくて……」
「いや、大丈夫だから。変にフォローされる方が余計に虚しくなるし」
喋ることだけではなく、歩くことまで早くなった私は、彼が発した次の言葉で再び足を止めた。
「そうじゃなくて。君と一緒に暮らすなら、同棲じゃなくて結婚しか頭になかったんだ」
「……」
「つまり……これ、プロポーズだから」
普段どんなときでも堂々としている冷静な久我さんが、珍しく照れている。
ていうか、プロポーズされるとか、信じられない。
今、私、夢を見ているのだろうか。
本気でそう思い、片手の甲をぎゅっとつねると、ちゃんと痛みを感じてホッとした。
「どうしたの……?だって久我さん、結婚願望がないって前から言ってたじゃない」
「もちろんその言葉に嘘はなかったんだよ。君と付き合う前までは、ずっとそう思っていたし、その考えは変わらないと思ってた。でも正直、自分でも驚くぐらい変わったんだよ。気付けば結婚を意識している自分がいたんだ」
あぁ、どうしよう。
こんなときくらい、ちゃんと彼の顔を見せてよ。
勝手に目が涙で滲んで、ぼやけてくる。「君の返事を聞かせてほしいんだけど」
そう言って久我さんは、私の目に溜まった涙を指で拭い、困ったように笑った。
「嬉しいけど……本当に私でいいの?」
「そんなこと言うなんて、君らしくないね」
「だって、私家事とか別に得意な方じゃないし、仕事を辞めて家庭に入るのは考えられないし、いちいち嫉妬とかしちゃうし、ワガママだし性格可愛くないし!」
本当は、死ぬほど嬉しい。
私と結婚したいと思ってくれていること、大声で叫びたいくらい、嬉しい。
それなのに、嬉しいの後に「けど」を付け加えて、ボロボロ泣きながらベラベラと可愛くないことを言ってしまう。
この性格、本当にどうにかしたい。
ねぇ、どうにかしてよ。
「それに、後からやっぱり結婚とか重いし面倒だし自由がなくなるから無理とか言われても困るし、そんなこと言われたら私生きていけな……!」
私のうるさく動く口を止めてくれたのは、久我さんの温かいキスだった。
「いい加減諦めて、僕と結婚するって言いなよ」
「……っ」
「仕事は辞めなくていい。家事だって、時間に余裕がある方がやればいい。それから、君がワガママで可愛くない性格だってことは最初から知ってるし」
「な……」
「でも僕は、そんな君をたまらなく愛してるんだけど」
その瞬間、顔が一気に熱くなり、久我さんの顔を真っ直ぐ見れなくなった。
ヤバイ、このままじゃ、心臓がもたない。
私は咄嗟に彼に抱きつき、彼の胸元に自分の顔を押し付け、真っ赤になっているであろう顔を隠した。
「それに、嫉妬なら僕も負けないと思うよ」
「も、もういいから!」
「じゃあ、こっち見て」
無視なんて出来るはずがない。
私は隠した顔をゆっくりと上げ、彼と視線を合わせた。
「プロポーズの返事は?」
「……そんなの、イエスに決まってるでしょ」
「ハハッ、良かった」
久我さんのホッとしたような笑顔が、一層眩しく見えて仕方なかった。
私の答えなんて、わかっていたくせに。
私はもう、涙で顔がぐちゃぐちゃだ。
「甲斐は?いつまでに結婚したいとかあるのか?」
「いつまでにとかは特にないけど……まぁ、いつかは結婚したいと思うよ」
何杯飲んでも全く酔うことのない甲斐は、ビールを飲みながら自然と結婚願望を口にした。
甲斐に結婚願望があることは、us stock broker 以前から知っている。
前にそんな話を二人でしたことがあるからだ。
私と甲斐の結婚への価値観は違う。
もし私と甲斐が交際することになったとしたら、いつか必ずこの価値観の違いにお互い悩むことになる。
そんなこと、最初からわかっているのに。
甲斐と目が合うだけで、胸の奥が勝手に疼いてしまうのだ。
「結婚の前に、まずは相手見つけないとね」
「桜崎もな」
「あ、でも甲斐には彼女候補がいるもんね。ほら、あの美人の元カノ!」
そこで蘭が真白さんのことを話題に上げた瞬間、甲斐の顔色が変わった気がした。
「……何でそこで真白が出てくるんだよ」
「だって、よくある話でしょ?昔付き合ってた二人が大人になってから再会して、また恋しちゃう王道パターン。それには当てはまらないの?」
「……当てはまらないよ。女って、そういう妄想好きだよな」
今、甲斐の返答には明らかに不自然な間があった。
その不自然な間が、嫌な想像を駆り立てる。甲斐と真白さんの間に、何かがあった。
そんな気がして仕方なかった。
「じゃあ、七瀬は?」
「え?」
まだ結婚についての話題は終わっていなかったのか、青柳が私に問いかけてきた。
「七瀬は、結婚したら意外といい奥さんになりそうだよな。面倒見いいし、家事は得意だろ?」
「……そうでもないよ。多分私は、結婚とか向いてないと思う」
「そんなことないだろ。七瀬なら……」
青柳が私のことを褒める言葉が耳に入ってくるけれど、胸の気持ち悪さが徐々に増していき少しも会話に集中出来ない。
こんなことになるなら、あんなに食べ過ぎなければ良かった。
酎ハイも、飲まずに最初からお茶を選んでいれば良かった。
さすがに、このまま飲み続けるのはきついかもしれない。
場の空気を壊さずに休めるタイミングはないか見計らっていると、急に甲斐が立ち上がり私の腕を掴んだ。
「七瀬、ちょっと」
「え……」
「いいから、来て」
甲斐にふざけている様子はない。
私は戸惑いながらも、立ち上がり部屋から出て行く甲斐に続いた。
どこに行くのかと思ったら、甲斐は向かいにある私と蘭の部屋の扉の前で止まった。「鍵、開けて」
「わ、わかった」
言われるがままに部屋の扉を開け中に入ると、甲斐は私の頬やおでこに優しく触れた。
「ちょ、何して……」
「やっぱり。お前、熱あるだろ」
「熱……?まさか。別に風邪なんて引いてないし……」
でも、確かに頭がぼんやりして少しフラフラするとは思っていた。
お風呂に長く浸かり過ぎたせいだと思い気にしていなかったけれど、どうやら違うようだ。
「目も赤いし、頬も不自然に赤い。食べ過ぎで具合悪いのかと思ったけど、明らかに発熱の症状だよ。風邪じゃないなら、疲れのせいかもしれないな」
甲斐は私の手を掴んだままベッドまで連れて行き、私はそのまま強制的にベッドに寝かされた。
「どうせ、場の空気が悪くなると思って、具合悪いって言い出せなかったんだろ?」
「え……」
「お前のことなら、大体わかるから」
「……」
「お前って、変な所で遠慮するんだよな」
甲斐は呆れたように笑いながら、横になっている私の頭を優しく撫でた。
「何も気にしなくていいから、少し休んでな。何か必要なものあれば、向こうの部屋から持ってくるから」
そう言って、ベッドの端に座っていた甲斐が立ち上がった。
甲斐が行ってしまう。
そう思った瞬間、私は甲斐の浴衣の裾を掴んでいた。
「行かないで……」どこにも行かないでほしい。
誰よりも甲斐にそばにいてほしい。
熱のせいなのか、急に心細さを感じてしまう。
甲斐の浴衣の裾を掴む手が、小さく震える。
「……あと少しでいいから、そばにいてくれないかな」
私の必死さが、伝わったのだろうか。
甲斐は、わかったと言って床に座り込んだ。
手を伸ばせば、すぐ届く距離に甲斐がいる。
それがどんなに幸せなことなのか、今さらながら実感した。
「でも、こんなときに熱出すとか、何かお前らしいよな」
「どういう意味?」
「運がないってこと」
確かに、なぜこんなときに熱を出してしまうのだろうと思う。
でも、運がないとは思わなかった。
熱を出したおかげで、今こうして甲斐と二人きりの時間を過ごせているのだから。
「あのさ、そんな潤んだ目であんまり見つめないでくれる?」
「え……」
「俺、これでも結構必死で抑えてるんだけど」
「……」
「……いや、ごめん。やっぱ今のナシ。忘れて」
甲斐は急に早口になり、わざとらしく話題を変えた。
私は私で、指摘されてしまうほど見つめてしまっていたのかと恥ずかしくなる。
一気に、熱が上がった気がした。「章汰のヤツ、ぐっすり寝てて起きる気配なかったな」
「夜ご飯食べ終わるまで、すごい元気にはしゃいでたもんね。疲れちゃったんじゃないかな」
「顔は青柳に似てきたけど、やっぱ子供は無邪気で可愛いよな」
「……甲斐は、いつか結婚して子供が出来たら、きっといいパパになるね」
甲斐が子煩悩なパパになる姿が、簡単に想像出来てしまう。
甲斐は誠実な人だ。
仕事も器用にこなしながら、家庭も大切に出来るだろう。
「七瀬は?」
「私は……無理かな。子供は可愛いと思うけど、自分が家庭を持つことが想像出来ない」
「それは、自分の親のことがあるから?」
「……」
母の二度の離婚が、私の結婚への思いに多大な影響を与えていることは言うまでもない。
母が苦しむ姿を、ずっと見てきた。
夜に一人で泣いている姿を、何度も目にしたことがある。
家族を捨てて他の女性の元に行ってしまった父のことを、恨んでいるわけではない。
でも、母のことは大切にしてほしかった。
苦しむ母を見てきたからか、子供ながらに『結婚なんてしたくない』という思いが私の胸の奥に深く植え付けられてしまったのだ。
意識のない詩は丸薬を飲めずーー丸薬も牙蔵が注いだ水も、その小さな唇からこぼれ落ちた。
その瞬間、牙蔵は丸薬を素早くかみ砕くと水を含み、詩の口を塞いだ。
「…っ!!!」
信継は為すすべもなくーー目も逸らせずそれを見つめる。
ピク…と詩の瞼がわずかに震え、その喉が小さくコクンと鳴った。
「はっ…」
牙蔵は唇を離すとグイっと口を袖で拭い、世界公民 詩を信継に預ける。
「処置は済んだ。
解毒剤も飲めたし助かるはず…だが、しばらく熱が出るよ」
「……」
信継は驚きを隠せないまま、牙蔵を見つめた。
「…わかった…」
いつも冷静沈着な牙蔵。
付き合いの長いその牙蔵がーーこんなに必死なところは、信継も初めて見たのだ。
背を向け歩いて行く牙蔵。
信継は詩をしっかり抱きしめ、その顔をじっと見つめる。
「…」
さっきよりは幾分ましになった呼吸音ーー信継は静かに詩の額に口づけた。
ーーーーーー
「もう!爺!!なにすんのよ」
高齢のおじいさんは、厳しい顔で鼎を見つめた。
「…お前は変わらないな」
「…」
詩の介抱に必死な信継と牙蔵の代わりに、那須はじっとそのやり取りを見ていた。
「…変わらないわよ?
面白いことが好きなの」
「…」
おじいさんはじっと鼎を見ている。
「面白いものがないと生きてる気がしないのよ」
「…今は相嶋が面白いのか」
鼎はニヤッと笑った。
「…面白いわよ?
でも、今日…もっと面白いものを見つけちゃった」鼎の視線の先には、詩を抱いて助けようと必死な牙蔵と、信継の姿。
おじいさんの眉がピクっと上がる。
「…何かの間違いだろう…面白いとも思えないが」
鼎はフッと笑った。
「…面白いわよ?
あの小娘…」
「…」
鼎は夢見るように微笑んだ。
「殺すより生かした方が遥かに面白そうね」
「…」
おじいさんが口を結んで鼎を睨む。
「殿に報告するわ。
可愛い人形を見つけたって。
ふふ…きっと欲しがるでしょうね。
…また今度、貰いに来るわ」
そう言うが早いか、鼎はサッと姿を消した。
「…」
おじいさんは小さくため息をつく。
鼎が山を飛び降り去って行く。その気配はあっという間に消えた。
ーー同時に牙蔵がおじいさんの隣に立った。
「…久しぶりだね」
おじいさんは牙蔵を見つめた。
「…お前も…ちゃんと解毒薬を飲みなさい」
牙蔵は苦く笑う。
「…慣れてるからいい」
「…」
母の胎の中にいた頃からーー毒にはーー
おじいさんは苦く言葉を飲むこむ。
「…あの子が三鷹の?」
牙蔵は小さく頷いた。
「…やっかいな相手に目をつけられたもんだな」
おじいさんがため息交じりに言う。
「…」
牙蔵はフッと笑った。
「大丈夫だよ」
「…」
おじいさんの目には、不安など一つもなさそうに微笑む牙蔵の顔ーー
「牙蔵…お前変わったな」
おじいさんは牙蔵にボソッと言った。
牙蔵は目を一瞬細める。
「…変わらないよ。何も」
「…」
おじいさんは一瞬微笑みーーそれから瞬きを一つすると、牙蔵を見た。
「…あの子が目を覚ましたら伝言を頼みたい。
三鷹の松丸と栄さんは私のところにいると。
お前のとこのには言っていたが…お前はまだあの子に伝えてないのだろう?」
「…」
牙蔵の脳裏に詩と出会ったあの時の映像が浮かぶ。
手負いの三鷹の忍と、ババアーー
詩が無事を聞けば、きっと笑顔で喜ぶ。
あれはそういう人間だーーと、牙蔵は小さく笑った。
「…松丸は…必死で訓練しているが…
もう元通りにはならないかもしれない」
「…」
「…右腕は、な」
「…」
「今日は信継様の噂を聞いてーー何やら胸騒ぎがして来てみたが…来て良かった。
鼎は本当にどうしようもない」
「あれはバケモノだね」
牙蔵がさらりと言うと、おじいさんが眉を寄せた。
「あれをこの世に生み出したものとして…責任を取るつもりだ」
「…」
牙蔵はもう何も言わずーー黙って信継と詩を振り返る。
と、少し離れたところに、気を失ったままの龍虎を馬に乗せた育次がいた。
「…」
牙蔵と目が合うと、育次はまたぺこりと頭を下げる。
おじいさんがニコッと笑って育次の元に歩いた。
「…」
牙蔵は振り返らずに蠟梅の林へと足を向ける。
那須をチラっと見て、ボソッと言った。
「適当に刈って帰るよ」
「はっ」
那須と牙蔵は手際よく、枝ぶりのいい蠟梅を切って行くのだった。
あの性格だ。だがよう、これまでも戦に勝った後の始末は、どちらかと言うと、皆俺抜きで話を進めて反ってそれで上手く収まって来たじゃねえか。」
「む、むうう。」
とドルバスはハンベエのこの言葉には唸ってしまった。確かに、合戦に勝利するまではハンベエの意向は絶対であったが、一旦勝利が確定した後はドルバスを始め他の領袖達が和平後の処理を進めて来たのが王女軍の通例の形になっていた。それはバンケルク打倒直後に発したハンベエの『士官共は皆殺しだ。』という過激過ぎる方針に周りの者達が流石にやり過ぎの印象を持った事に起因していた。
ハンベエは敵に対しては厳し過ぎる一面を持っていた。我死ぬか敵死ぬか、敗者は当然滅びよという気質なのである。しかしその一方、ハンベエは既に定まった事は後から蒸し返す事は無かった。それを良い事に、ドルバス達はハンベエがあまりに敵に対して酷烈な処断を下す前に妥当と考える線で戦後処理を進めて来たのであった。 このハンベエの指摘にはドルバスも沈黙せざるを得なかった。が、納得したわけでは無い。最後はハンベエは拝み倒すようにしてドルバスを押し切った。出処進退、出る処るは人の手助けに依り、進む退く、殊に退くは身一人の事とは言うが、今回退くのはハンベエにとってはほとほと骨の折れる事であった。何しろ、後は野となれ山となれと自分一人だけ立ち去れば良いわけではないからだ。
「貴公が兵士達を束ねねば、王女は立ち往生だ。モルフィネスだけに王女を任せては置けんだろう。」
ハンベエにそう言われ、ドルバスは言い返せなくなった。
「それは仕方ないとしよう。しかし、このまま、ハンベエと別れるのは心残りが有る。俺がテッフネールに子供扱いにあしらわれた後、必死で武技の鍛練に励んで来たのを知っておろう。その目標はハンベエ、貴公じゃ。」
最後にドルバスはそう言った。
ヒョウホウ者であるハンベエはその言葉の意味を直覚した。
この若者は複雑な顔になり、しばらく黙り込んだ後、
「貴公の気分は良く解る。俺はヒョウホウ者だ。俺にも全く同じ気分が有る。だが、そいつは無理だ。俺には貴公は斬れん。斬る理由も覚悟も無い。貴公だとて、この俺にトドメを刺せるとは思えん。互いに相手を討ち滅ぼす覚悟が定まらぬ者同士が仕合おうたとて、それは真剣勝負にはならない。互いに最後のトドメを刺す事に逡巡して右往左往するのが目に見えている。」
そう答えた。
留めを刺せないだろうと言われ、ドルバスはこれ又返す言葉に詰まった。
「言われて見れば、その通りじゃのう。」
ややあって、ドルバスは諦めの溜息を吐いた。
ヘルデンの説得も、
「御大将・・・・・・水臭いでしょうが・・・・・・。」
と相当に食い下がられたが、
「気に入らないだろうが、人は世に求められる居場所に居る外ない。今後も王女の試練は続く。今の状況で、お前が王女を護らなくて誰が護るんだよ。」
ハンベエの居る場所はどうなんだと反問されそうであるが、自分の事は棚上げに徹して、ヘルデンも押し切った。
しかし、更にまだ納得しない者達が居た。特別遊撃隊の面々である。特別遊撃隊と言えば、旧タゴロローム第五連隊の生き残りである。タゴロロームにおける対アルハインド戦で、モルフィネスに受けた扱いを忘れたわけでは無い。戦いの日々の果ての果てに、ハンベエが去り、モルフィネスが残って王国を牛耳るという結果を心情的に受け容れられないものがあった。
その中で最大兵力を有しているのは、実はノーバーではない。トネーガという五十男で、五千人の兵士を有していた。ノーバーの兵力はこれに次ぎ三千人あまりである。ノーバーが代表者たり得ているのはモスカ夫人に上手く取り入っていた事も一因しているが、トネーガが良く言えば一徹者、悪く言えば融通の利かない人物で、貴族を一纏めにして各々の利害を調整するような事には向いていなかった為である。(トネーガに蹴落とされる事は無かろうが、貴族軍を従える太子達にとっては、自分のように目端の利く人間よりはトネーガの方が扱い易いに違いない。まして、捨て石にする腹積もりなら尚の事。) とノーバーは勘繰らずにはいられない。マッコレの話にあった通り、太子達ボルマンスク首脳に対して膨らんだ疑念から、どんな罠が仕掛けられるかと不安が頭から離れず、身辺警護を一層厳しくしている 試管嬰兒流程圖 ノーバーであった。思えばこの貴族も、国王バブル六世の毒殺、ステルポイジャンによるバトリスク一族虐殺、ステルポイジャン軍潰滅後のゲッソリナに湧いて出た魑魅魍魎のような輩達・・・・・・。そして、モスカ夫人を捨て殺しにした我が身も含め、おぞましい人間地獄絵巻きを見てきたのであった。マッコレ以下の厳しい監視は、自分を排斥する為の理由探しに思えてならない。自分の陣屋で、選りすぐりの百余名の護衛に守られながら、ノーバーは怯えていた。『気を付けよ、ノーバー。』 折も折、そんなノーバーの耳に突然、女の声が響いた 聞き覚えのあるその声にギョッとなって、ノーバーは声のする方に目をやった。既に夕方から夜に移ろうとしている。兵士達が篝火を燃やし始めたところであった。薄暗がりの中目を凝らすが、声の方角には誰も居ない。(空耳か・・・・・・。しかし、この声は。)私も大分疲れているようだ、とノーバーが吐息をついた瞬間である。『今宵、マッコレがお前を殺しに来るぞよ。恐ろしかろう、ノーバー。妾を裏切った汝に安息の日はないぞよ。』 再びノーバーの耳に同じ声が響き、ふははは、と最後は不気味な笑い声で結ばれた。それは死んだはずのモスカ夫人のものであった。ノーバーの耳はそう判じていた。ノーバーは目を血走らせて、前後左右を見た。彼を護るべく大勢の兵士が周りに近侍している。しかし、声の主と思える者の姿は無く、又自分以外にその声を耳にした様子の者もいない。(まさか、怨霊・・・・・・。いや、気の迷いだ。)気が狂いそうだ。いや、狂い初めているのかも知れない。ノーバーの額に冷たい汗が浮いていた。「嫌な予感がする。ここの兵士をもっと増やせ。配下の兵士にも備えを怠らぬよう周知せよ。」気の迷いと思いつつも、ノーバーは側近の兵士にそう命じた。 夜半過ぎ、ソコハケン平野の野営陣地の一角に突如火の手が上がった。「出会え、曲者だ。」「敵が紛れ込んだぞ。 忽ち騒ぎになる。歩哨兵が駆け回り、寝ぼけまなこで起き上がって剣を手にする者達が続く「ノーバー卿、ご無事か。」騒ぎが広がる中、ノーバーの陣屋にマッコレが十数名の配下兵士を引き連れて走り込んで来た。「私は、無事だ。何事の出来(しゅったい)であるか。」寝間着姿のノーバーが立っている。