「蘭!のんびりしてないでお皿とか出してちょうだい」
「はいはい」
ここに来た当初は日帰りのつもりだったのに、まさか泊まることになり朝から家族で食卓を囲むことになるなんて、一夜が明けた今でも不思議だ。
「匠さんが作った卵焼き、見た目も綺麗で本当に美味しいわね」
「ありがとうございます。鄭志剛博士 お母さんが作った味噌汁も絶品ですよ。きのこが沢山入っていてだしがよく出てますね」
「ヤダ、嬉しいわ。お父さんも蘭も、私の料理を褒めることなんてほとんどないから、作りがいがないのよ。匠さん、良かったらいっぱい食べて」
「僕、朝はしっかり食べる派なので遠慮なくいただきます」
母と久我さんの会話を聞きながら、私は黙々と朝食を食べ進めた。
もしここに久我さんがいなければ、会話らしきものなんてなかっただろう。
むしろ、母にうるさく小言を言われて私が怒りケンカになっていたかもしれない。
本当に、久我さんの存在は貴重だ。
とにかく上機嫌の母は、朝食を食べ終えた後も強引に彼をお茶で引き留めた。
その結果、私たちが帰る頃には既に昼になっていた。
「良ければ昼食も家でどう?美味しいお蕎麦があるのよ」
「それはさすがに無理。もう帰るから」
「そう?残念だわ。匠さん、絶対にまた来てね。蘭が夜勤のときとか、家にご飯食べに来てくれてもいいんだから」
「いいんですか?ありがたいですね」
なんて、久我さんは母の強引な誘いに少しも嫌な顔を見せることなく、最後までパーフェクトな恋人の顔で私の実家を後にした。
「地下鉄の駅まで歩くの面倒くさいね。もう、タクシー使っちゃう?」
「いや、時間もあるしゆっくり歩こうか」
二人で地下鉄の駅までの道を並んで歩く中、どちらからともなく手を繋いだ。
付き合い始めたばかりの頃は、手を繋ぐだけでも手汗を気にしてしまうくらい、ドキドキが止まらなかった。
今はあの頃感じた緊張は薄れてきているけれど、反対に喜びは増している気がする。
「朝ごはん、作ってくれてありがとう。本当に、めちゃくちゃ美味しかった」
「本当に美味しそうに食べてたよね」
「え……顔に出てた?」
「君はわかりやすいから、口に出さなくても顔を見れば何を考えているのか大体読める」
そう言われると、途端に恥ずかしくなる。
「毎朝、あの顔を見れたら幸せだろうな」
久我さんが、前を向きながらぽつりと呟いた。「久我さんが毎朝作ってくれるなら、いくらでも美味しそうに食べるけど」
そんな返事をしてみたものの、実際に毎朝ご飯を作ってもらうなんて無理な話だ。
そもそも、私たちは一緒に住んでいるわけではない。
週に二~三回くらい、私が彼の家に泊まる。
それくらいの方が、彼にとってはちょうどいいのだろう。
私は、そう思ってきた。
「そう?じゃあ、毎朝作るから食べてくれる?」
「いや、だから毎朝って……」
無理でしょ。
そう言おうと思い、隣で歩く彼の顔を笑いながら見上げた私は、思わず立ち止まってしまった。
久我さんの顔を見て、ふざけているわけではないと悟ったからだ。
「それって……同棲しようって、こと?」
「同棲?」
「……っ、ウソ、ごめん、何でもない!聞かなかったことにして」
久我さんが眉をひそめて聞き返してきたから、一瞬で恥ずかしくなり早口でまくしたてた。
私の勘違いだったなんて、恥ずかしすぎる。
そうだ、独身貴族で自由を好む久我さんが同棲を希望するわけがない。
そんなこと、当たり前のようにわかっていたはずなのに。
何で急に、わからなくなってしまうのだろう。
だって、毎朝作るから食べてくれる?なんて言われたら、誰だって勘違いするでしょ。
……好きなんだから。
「あぁ、ごめん。そういう意味で聞き返したわけじゃなくて……」
「いや、大丈夫だから。変にフォローされる方が余計に虚しくなるし」
喋ることだけではなく、歩くことまで早くなった私は、彼が発した次の言葉で再び足を止めた。
「そうじゃなくて。君と一緒に暮らすなら、同棲じゃなくて結婚しか頭になかったんだ」
「……」
「つまり……これ、プロポーズだから」
普段どんなときでも堂々としている冷静な久我さんが、珍しく照れている。
ていうか、プロポーズされるとか、信じられない。
今、私、夢を見ているのだろうか。
本気でそう思い、片手の甲をぎゅっとつねると、ちゃんと痛みを感じてホッとした。
「どうしたの……?だって久我さん、結婚願望がないって前から言ってたじゃない」
「もちろんその言葉に嘘はなかったんだよ。君と付き合う前までは、ずっとそう思っていたし、その考えは変わらないと思ってた。でも正直、自分でも驚くぐらい変わったんだよ。気付けば結婚を意識している自分がいたんだ」
あぁ、どうしよう。
こんなときくらい、ちゃんと彼の顔を見せてよ。
勝手に目が涙で滲んで、ぼやけてくる。「君の返事を聞かせてほしいんだけど」
そう言って久我さんは、私の目に溜まった涙を指で拭い、困ったように笑った。
「嬉しいけど……本当に私でいいの?」
「そんなこと言うなんて、君らしくないね」
「だって、私家事とか別に得意な方じゃないし、仕事を辞めて家庭に入るのは考えられないし、いちいち嫉妬とかしちゃうし、ワガママだし性格可愛くないし!」
本当は、死ぬほど嬉しい。
私と結婚したいと思ってくれていること、大声で叫びたいくらい、嬉しい。
それなのに、嬉しいの後に「けど」を付け加えて、ボロボロ泣きながらベラベラと可愛くないことを言ってしまう。
この性格、本当にどうにかしたい。
ねぇ、どうにかしてよ。
「それに、後からやっぱり結婚とか重いし面倒だし自由がなくなるから無理とか言われても困るし、そんなこと言われたら私生きていけな……!」
私のうるさく動く口を止めてくれたのは、久我さんの温かいキスだった。
「いい加減諦めて、僕と結婚するって言いなよ」
「……っ」
「仕事は辞めなくていい。家事だって、時間に余裕がある方がやればいい。それから、君がワガママで可愛くない性格だってことは最初から知ってるし」
「な……」
「でも僕は、そんな君をたまらなく愛してるんだけど」
その瞬間、顔が一気に熱くなり、久我さんの顔を真っ直ぐ見れなくなった。
ヤバイ、このままじゃ、心臓がもたない。
私は咄嗟に彼に抱きつき、彼の胸元に自分の顔を押し付け、真っ赤になっているであろう顔を隠した。
「それに、嫉妬なら僕も負けないと思うよ」
「も、もういいから!」
「じゃあ、こっち見て」
無視なんて出来るはずがない。
私は隠した顔をゆっくりと上げ、彼と視線を合わせた。
「プロポーズの返事は?」
「……そんなの、イエスに決まってるでしょ」
「ハハッ、良かった」
久我さんのホッとしたような笑顔が、一層眩しく見えて仕方なかった。
私の答えなんて、わかっていたくせに。
私はもう、涙で顔がぐちゃぐちゃだ。