「甲斐は?いつまでに結婚したいとかあるのか?」
「いつまでにとかは特にないけど……まぁ、いつかは結婚したいと思うよ」
何杯飲んでも全く酔うことのない甲斐は、ビールを飲みながら自然と結婚願望を口にした。
甲斐に結婚願望があることは、us stock broker 以前から知っている。
前にそんな話を二人でしたことがあるからだ。
私と甲斐の結婚への価値観は違う。
もし私と甲斐が交際することになったとしたら、いつか必ずこの価値観の違いにお互い悩むことになる。
そんなこと、最初からわかっているのに。
甲斐と目が合うだけで、胸の奥が勝手に疼いてしまうのだ。
「結婚の前に、まずは相手見つけないとね」
「桜崎もな」
「あ、でも甲斐には彼女候補がいるもんね。ほら、あの美人の元カノ!」
そこで蘭が真白さんのことを話題に上げた瞬間、甲斐の顔色が変わった気がした。
「……何でそこで真白が出てくるんだよ」
「だって、よくある話でしょ?昔付き合ってた二人が大人になってから再会して、また恋しちゃう王道パターン。それには当てはまらないの?」
「……当てはまらないよ。女って、そういう妄想好きだよな」
今、甲斐の返答には明らかに不自然な間があった。
その不自然な間が、嫌な想像を駆り立てる。甲斐と真白さんの間に、何かがあった。
そんな気がして仕方なかった。
「じゃあ、七瀬は?」
「え?」
まだ結婚についての話題は終わっていなかったのか、青柳が私に問いかけてきた。
「七瀬は、結婚したら意外といい奥さんになりそうだよな。面倒見いいし、家事は得意だろ?」
「……そうでもないよ。多分私は、結婚とか向いてないと思う」
「そんなことないだろ。七瀬なら……」
青柳が私のことを褒める言葉が耳に入ってくるけれど、胸の気持ち悪さが徐々に増していき少しも会話に集中出来ない。
こんなことになるなら、あんなに食べ過ぎなければ良かった。
酎ハイも、飲まずに最初からお茶を選んでいれば良かった。
さすがに、このまま飲み続けるのはきついかもしれない。
場の空気を壊さずに休めるタイミングはないか見計らっていると、急に甲斐が立ち上がり私の腕を掴んだ。
「七瀬、ちょっと」
「え……」
「いいから、来て」
甲斐にふざけている様子はない。
私は戸惑いながらも、立ち上がり部屋から出て行く甲斐に続いた。
どこに行くのかと思ったら、甲斐は向かいにある私と蘭の部屋の扉の前で止まった。「鍵、開けて」
「わ、わかった」
言われるがままに部屋の扉を開け中に入ると、甲斐は私の頬やおでこに優しく触れた。
「ちょ、何して……」
「やっぱり。お前、熱あるだろ」
「熱……?まさか。別に風邪なんて引いてないし……」
でも、確かに頭がぼんやりして少しフラフラするとは思っていた。
お風呂に長く浸かり過ぎたせいだと思い気にしていなかったけれど、どうやら違うようだ。
「目も赤いし、頬も不自然に赤い。食べ過ぎで具合悪いのかと思ったけど、明らかに発熱の症状だよ。風邪じゃないなら、疲れのせいかもしれないな」
甲斐は私の手を掴んだままベッドまで連れて行き、私はそのまま強制的にベッドに寝かされた。
「どうせ、場の空気が悪くなると思って、具合悪いって言い出せなかったんだろ?」
「え……」
「お前のことなら、大体わかるから」
「……」
「お前って、変な所で遠慮するんだよな」
甲斐は呆れたように笑いながら、横になっている私の頭を優しく撫でた。
「何も気にしなくていいから、少し休んでな。何か必要なものあれば、向こうの部屋から持ってくるから」
そう言って、ベッドの端に座っていた甲斐が立ち上がった。
甲斐が行ってしまう。
そう思った瞬間、私は甲斐の浴衣の裾を掴んでいた。
「行かないで……」どこにも行かないでほしい。
誰よりも甲斐にそばにいてほしい。
熱のせいなのか、急に心細さを感じてしまう。
甲斐の浴衣の裾を掴む手が、小さく震える。
「……あと少しでいいから、そばにいてくれないかな」
私の必死さが、伝わったのだろうか。
甲斐は、わかったと言って床に座り込んだ。
手を伸ばせば、すぐ届く距離に甲斐がいる。
それがどんなに幸せなことなのか、今さらながら実感した。
「でも、こんなときに熱出すとか、何かお前らしいよな」
「どういう意味?」
「運がないってこと」
確かに、なぜこんなときに熱を出してしまうのだろうと思う。
でも、運がないとは思わなかった。
熱を出したおかげで、今こうして甲斐と二人きりの時間を過ごせているのだから。
「あのさ、そんな潤んだ目であんまり見つめないでくれる?」
「え……」
「俺、これでも結構必死で抑えてるんだけど」
「……」
「……いや、ごめん。やっぱ今のナシ。忘れて」
甲斐は急に早口になり、わざとらしく話題を変えた。
私は私で、指摘されてしまうほど見つめてしまっていたのかと恥ずかしくなる。
一気に、熱が上がった気がした。「章汰のヤツ、ぐっすり寝てて起きる気配なかったな」
「夜ご飯食べ終わるまで、すごい元気にはしゃいでたもんね。疲れちゃったんじゃないかな」
「顔は青柳に似てきたけど、やっぱ子供は無邪気で可愛いよな」
「……甲斐は、いつか結婚して子供が出来たら、きっといいパパになるね」
甲斐が子煩悩なパパになる姿が、簡単に想像出来てしまう。
甲斐は誠実な人だ。
仕事も器用にこなしながら、家庭も大切に出来るだろう。
「七瀬は?」
「私は……無理かな。子供は可愛いと思うけど、自分が家庭を持つことが想像出来ない」
「それは、自分の親のことがあるから?」
「……」
母の二度の離婚が、私の結婚への思いに多大な影響を与えていることは言うまでもない。
母が苦しむ姿を、ずっと見てきた。
夜に一人で泣いている姿を、何度も目にしたことがある。
家族を捨てて他の女性の元に行ってしまった父のことを、恨んでいるわけではない。
でも、母のことは大切にしてほしかった。
苦しむ母を見てきたからか、子供ながらに『結婚なんてしたくない』という思いが私の胸の奥に深く植え付けられてしまったのだ。