事の発端は原田,永倉,藤堂による勝てば島原で豪遊出来る権利を貰える賭けから始まった。
試合と言う名の遊び。
やるなら三人じゃ面白みに欠ける。
甘味をちらつかせて総司を巻き込み,くだらんと鼻で笑った斎藤を敵前逃亡だとけしかけた。
腕に覚えのある奴はかかって来いと周りを巻き込んでの大騒ぎ。
『洗濯物干したいねんけどなぁ。tote bag 男 』
小姓と言う立場から土方の身の回りの世話が優先。
稽古にも同行させられるが考えるのは家事の段取り。
今日なら布団を干すにはもってこいな陽気。ついつい欠伸も出ちゃう。
『早く終わらへんかな…。』
三津が呆けている間も試合は異様な盛り上がりを見せ,気付けば総司と斎藤の最終戦になっていた。
「何だかんだ言って斎藤さん本気ですね。」
余裕の笑みを投げかける総司。それに対するは,
「勝負となれば本気を出さざるを得まい。」
表情一つ変えず竹刀を構える斎藤。
『これに勝って三津さんと甘味をたんまり食べるんだ。
芹沢さんの件が終わったって言うのに土方さん,小姓にしたままなんだから。』
三津を右に座らせ高みの見物をする土方。
『三津さんも何の違和感もなく隣りにいるんだから…。』
当たり前になってしまった光景にヤキモキしながら竹刀に力を込めた。
「始めっ!」
永倉のかけ声で二人の勝負が始まったのだが,
三津は上の空。どんなに竹刀が激しくぶつかっても何の興味も示さない。
「お前勝負に集中しやがれ。どっちか応援するぐらいしたらどうだ。」
頬を力一杯引っ張り痛みで分からせる。
「はい…。」
とは言え,どっちを応援すればいいのやら。
「で…,どっちを?」
そう聞かれたら土方も困る。
正直どっちでもいい。
「俺に聞くな。」
頬から手を引くと三津から視線を外して見ざる。
ずるいと言う声も素知らぬふりして聞かざる。
『沖田さんは元々強いし…。』
「斎藤さんっ頑張って!」
簡単な理由で三津は斎藤に声援を送った。それに自分の声が聞こえてるなんて思ってもない。
『何で斎藤なんだ。』
土方は何故?と首を捻るが,土方以上に何故と思った男がいた。野太い声援の中で紅一点の声援は本人が思っている以上に耳に響く。
総司はしっかりとその声を耳にしてしまった。
何故自分への声援じゃない?
そうした動揺が一瞬の隙を作る。
斎藤がその好機を逃すはずがない。
総司が注意を逸らしたほんの一瞬で勝負はついた。
見事に面に打ち込んだ。文句なしの一本勝ち。
「そこまで!勝者斎藤!」
永倉の声に改めて負けを認めざるを得ない総司はがっくり肩を落とす。
これに勝てば誰にも邪魔される事なく三津を独り占め出来たのに。
「じゃあ斎藤何が望みだ?酒か?女か?」
原田がどんと来いと拳で胸を叩き,にかっと笑った。
他の面々も斎藤の要求に興味津々。
斎藤は無言でぐるりと道場内を見渡した。
『別の男を応援されて動揺しやがるか。総司もまだまだ修行が足りねぇな。』
土方は面白いものが見れたと満足げに顎をさすり,
『やっと終わったぁ…。』
退屈な時間が終わり大きく伸びをする三津。
斎藤の視線は二人を捉えて止まった。
「副長…。」
「何だ?」
気付けば多くの視線がこっちに注がれていた。
声がかかるとも思っていなかったから少し身構える。
が必要だったのだ。
それは土方の独断で決定され、その日のうちに切腹が執行される。介錯人は沖田が務めた。
その最期を見届けた土方は部屋でらせ、VISANNE Watsons 僅かに空いた障子の隙間から外を見ていた。
脳裏には、腹を切る前の清々しい表情の葛山と、それと相反したような苦々しい表情の沖田が浮かぶ。
そこへ足音が聞こえたと思うと、険しい顔をした山南が景色を塞ぐように立っていた。
来たか、と土方は苦笑いを浮かべる。
「…入って良いぜ」
「…失礼します」
山南は土方の前に座ると、眉間の皺を濃くした。
「土方君、何を考えているんですか。一般隊士だけ腹を詰めさせるとは」
「…じゃあ、永倉も原田も斎藤も…皆切腹をさせろと言いたいのか」
山南は拳を握ると、そうじゃないと声を漏らす。土方は山南をした。
その視線は何処か冷たく、まるで何の感情もこもっていないもので。
昔のような人情味溢れる好戦的な青年の面影はもう何処にも無かった。
「見せしめが必要だったんだ。局長が隊士に舐められてるなんて、笑い話にもなりゃしねェだろ…」
"見せしめ"と聞いた瞬間、山南は目元をぴくりと動かす。そして何かを言いたげに口元を動かそうとするが、諦めたように噤んだ。
「…思うことがあんなら言えよ」
それに気付いた土方は静かな声でそう言う。すると、山南は複雑そうな表情で口を開いた。
「…土方君は、変わりましたね」
ポツリとそう呟く。その伏せた瞳には深い哀愁が孕んでおり、土方はそれを見るなり視線を逸らした。
「…チッ、何時までも"多摩の薬売りの歳さん"じゃ居られねえってこった」
新撰組を、近藤を押し上げると決めた日から土方は甘さを捨てることにしたのである。
土方の肩には既に数多の奪ってきた命や組の命運がのしかかっていた。
いくら昔からの仲間とは言え、会津藩主へ直談判をしたのはやり過ぎだと思った。
もしもそれで新撰組が解体となれば、あの日見た夢が一夜にして崩れ去ることになる。
それを永倉達は分かっていたのか。
ふざけてんのか、畜生───
「仲間で出来た屍の上に、誠義などある筈がない…ッ」
山南の言いたい事は痛いほどに分かっていた。心配されていることも、一人で抱え込みすぎなことも。
「…お前さんは優しい男だよなァ。だがよ、山南さん。綺麗事や優しい言葉だけで組織はデカくなるか?」
組織は常に同じ方向を向いているべきだ、土方はそう考えていた。
そして誰かは鬼のように厳しく締め上げる人材が必要だということもは頭の近藤ではいけない。山南にはそれは似合わない。となれば、俺しか適任がいない。適材適所というヤツだ。
それなのに何故、哀れむような視線を向ける…?
「……私は」
貴方が心配です、と山南は絞り出すように告げた。そして立ち上がると去っていく。
非難の言葉が更に飛んでくると思っていた土方は目を見張る。
傾けられた煙管から煙だけがじわじわと浮かんだ。それを一つだけ蒸かすと、端正な顔を歪める。
ェ、な」
青白い月がそっと部屋に明かりを差し込んだ。
土方は虚空を仰ぐと、やるせない気持ちを押し込めるように目を瞑る──
「……。
いつも『もしも時を越えたなら』を
ご閲覧頂きまして有難うございます。
更新時刻に見に来てくださる方、毎日スターをくださる方、ページコメントをくださる方。
全ての皆様に感謝申し上げます。
【不穏な宴会】をもちまして、第一章完結とさせて頂きます。
明日の更新からは第二章が始まります。
第二章では新撰組を分断するあの策士らの加入、あの人との別れ、あの人の発病などなど。
重い展開が続きます(史実通りに進めていくと心が痛くなります…)
コミカルな部分も入れられるといいな。。と思います。
としか申しようがない」
永倉は、蕎麦がきを口に運ぶ箸をとめていった。あっ、訂正しよう。箸をもつ掌はとまったが、それは徳利をつかむためであった。かれはいっきに持論をぶってから、をつかんでかたむけ、「ごくごく」と牛乳を呑むみたいに芋焼酎をあおった。
内容も衝撃的であったが、呑み方も衝撃的すぎる。
いったい、どんだけ酒豪なんだ?正直、ひいてしまった。じゃねぇとな」
「たしかにそうですよね。生髮藥 まぁ、副長は子どものはあうんじゃないですか?」
「なんだと、主計?この野郎っ!おれのことをいったいどうみてやがる。いくらおれでも、
からそういう方面にかけてはかなりイタかったらしいですし、とかそのあたりで生まれたのなら、を孕ませ……」
激怒からのフェードアウト。
なんだ。やっぱり心当たりがあるんじゃないですか、副長?
「あははは!ヒィ・イズ・ア・パーバート!」
ちょっ……。
またしても、現代っ子バイリンガル野村の暴言である。
「いまのはどういう意味なのかな?」
もちろん、好奇心旺盛な永遠の少年島田が、いまの英語をしりたがるにきまっているよな。
「いいんですよ、島田先生。いまの訳をきいたところで、まったく、まーったく役に立たないんですから」
「それでもかまわぬ。知識は邪魔になるものではないからな」
なんと、島田が学校の先生みたいなことをいってきた。
「いまのは……」
「ぽちっ、ストップ!」
「副長のことをすけべ……」
「ぽちっ、まてっ!」
いらぬことをのたまおうとする俊春に、つい犬に命じるみたいに怒鳴ってしまった。
「ウウウウウウウウウウッ」
ああああ……。
相棒が、またしても
「ちょっとまちやがれ、新八。だとすりゃぁ、があわねぇじゃねぇか。ぽちたまがおれの餓鬼とすりゃぁ、どう見積もったってまだ元服してねぇでなきゃおかしいだろうが。それこそ、の餓鬼どもくらいのかわいさにおれにたいして牙をむいている。
『なんでこんな展開ばかりやねん?なんの話しとったか、忘れてしもたわ』
って関西弁でつぶやきつつ、がっくり両肩を落としてしまった。
結局、俊春は島田に、野村のいった暴言の意味を教えてやった。
『かれはスケベ野郎』
だと、トランスレイトしたのである。 そんなハプニングだらけの呑み会であったが、半次郎ちゃんも別府もげらげら笑って愉しんでいたようである。
割を喰ったのはおれである。
しかし、これも「笑いをとった」、「ウケた」というところでは、関西人のおれとしては上出来であったのではなかろうか。
これ以降、半次郎ちゃんや別府は、相馬主計という男の名を、新撰組の「ギャグメーカー」として心と脳裏に刻んでくれるはずである。
ということは、だれかに語る、あるいは証言することになれば、「ああ、相馬?たいしたことないない。あれは、からいじられたりするだけが取り柄の害のない男だ」と告げるかもしれない。
もちろん、公式には無理である。いまこうしていることじたい、それぞれが墓場までもっていかなければならぬほどのシークレットな出来事なのだから。
ゆえに、おれがこの終戦後に「おねぇ暗殺」の嫌疑をかけられても、おれの人格やおこないを肯定したり証言できないわけである。したがって、嫌疑を晴らすことはできない。
当然、断罪されることになる。
そこは、じつに残念なところではある。
それは兎も角、そんな深夜をすごし、いま、である。
倦怠感に襲われつつも、もそもそと起き上がってから、布団をたたんだ。
周囲のみんなを起こさず、さらには踏みつけないよう注意をしつつ、部屋から縁側にでてみる。
相棒がいない。
ぜったいに、厨にいっているんだ。
最近、おれは相棒のおれ離れにすこしずつ適応してきている気がする。いやちがう。もしかすると、その反対かも。つまり、おれの相棒離れ、かも。
おれになにがあろうとも、相棒には面倒をみたり気にかけてくれるがごまんといる。これは、文字どおりの意味である。相棒がただ道をあるいているだけでも、犬好きや狼好き、って、世のなかに狼好きっているのかどうかはしらないが、はやい話が相棒をまったくしらぬでも、喰い物をやったり水をやってくれるだろう。
が、これがおれとなるとそうはいかない。道をあるいていて、いき倒れたとしても、百人中九十九人はスルーするはずだ。残り一人は、いき倒れたおれから身ぐるみはがそうとする悪人か、どんな者にでも善意の手を差し伸べるような神や菩薩レベルの善人のどちらかだ。それも、そういう善人悪人が、ミラクル的に通りかかった場合にかぎる。
つまり、フツーは放置プレーってわけだ。
相棒とおれ、どっちがこの動乱の時期をのりきれるかはいうまでもない。
って、愚痴るのはやめておこう。
縁側から庭にでて井戸まであゆみつつ、ついため息をついてしまった。
朝食は、至極しずかであった。
ってか、つい数時間まえ、あれだけ呑み喰いしたというのに、永倉も島田もすごい勢いで喰っている。いまはもう競争相手がいないので、二人舞台で喰いまくっている。
二人とも、痩せの大喰いってわけではない。かといって、けっして太っているわけでもない。
喰ったものは、いったいどこにいっているのだろうか?
不可思議でならない。
いや。こういうことをかんがえるのはよそう。きっとダダもれしている。野村あたりが「うんこネタ」を振ってこないともかぎらない。いや、きっと振ってくるにちがいない。
「そういえば、「でこぴん野郎」がいっていた「ふぐがおどってる」だの「豆腐がどうの」ってのは、どういう意味だったんだろうな」
上座の西郷の右斜めまえで食している副長が、みそ汁の椀から箸で豆腐をつまみあげながらいった。
『ふぐがくる。ふぐがおどっておる。ふぐが教えてくれる。豆腐がふぐをみて笑っておる。豆腐は、ふぐとはおどりたくないと申しておる』
で、おれをみあげている。
以前、京の祭りでなめた水飴を気にいっていたのを思いだす。
足りるかな・・・。懐具合が気になってしまう。
そして、おれたちは寺へとむかった。
この村の菩提寺であるが、肺線癌檢查 それほどおおきいものではない。
飴売りは、その寺の境内の一角にいる。村の子どもたちが数名、わいわいがやがやしながら飴売りを囲んでいる。
「あ、あれあれ」
田村がいい、市村とともに止める間もなく駆けだしてしまう。
「主計さん、はやくはやく」
「そうだよ。金子係、はやくはやく」
どうやらおれは、相棒の散歩係から会計方に昇進したらしい。
昇進がうれしくないって思うのは、なにゆえであろう。
飴売りは、父親と息子くらいのがはなれていそうなコンビである。どちらもほっかむりをし、粗末な着物を尻端折りしている。の頃は、父親っぽい方がアラフィフ。息子っぽい方はアラサーってところか。父親っぽい方は、よく陽にやけていて、皺だらけのに人懐こい笑みを浮かべている。若い方の陽にやけたは、仏頂面になっている。生まれたときから家業を継ぐことを運命づけられ、それに不平不満を抱き、不遇の人生をとぼとぼあゆんでいる・・・。
若い方の仏頂面をみながら、勝手な想像をしてしまう。
飴売りは、ちいさな穴がいくつもあいている箱に、飴細工をさしている。
飴細工は、葦をつかう。その先端に熱した飴をからめ、反対側から息を吹き込み、冷めるまでに細工を施すのである。
子どもらとともに、飴細工をみてみる。
犬?猫??
正直、美術関係に造詣のないおれには、並んでいる飴細工がいったいなにかがわからない。
そもそも、双子が飴細工といったので、そうと思い込んでいた。もしかすると、飴細工ではなく、これが自然な形なのかも・・・。
そう前向きにとらえることにする。
村の子どもたちやその親らしき大人が幾人かいたが、おれたちがちかづくと頭を下げ、はなれていってしまった。
あからさまな態度をとられることはないが、やはり、の存在はよく思われてはいないのである。
まぁ、そこは仕方がない。
それは兎も角、飴売りを観察する。
手押し車に、飴細工作りのアイテムを積んでいるらしい。
飴細工は、まずは脚でふいごを踏んで火をおこし、ちいさな鍋のなかで飴をとかす。それを飴玉みたいな形にして葦の先端につける。葦に息を吹きかけながら飴玉をふくらませ、専用の和鋏で形を整えてゆくのである。
飴は、空気にふれるとかたまってしまう。ゆえに、の勝負である。
江戸時代から昭和の初期までは、大道芸的に人々のまえで飴細工を披露し、そのまま販売していた。
現代には、そういった体験をさせてくれる老舗もある。たしか、文京区のほうにあるかと記憶している。
「旦那方。わたしらは、この村の名主であります金子様のところの小者でございます」
俊冬がいい、双子はそろって飴売りのまえで腰をおる。ってか、いつの間に金子家の小者に?ってか、いったい、なんの芝居なんだ、双子?
「旦那方。ここいらは、金子家の土地でございます。ここいらで商いをされるのでしたら、一言ことわっていただかないと・・・」
いいにくそうなそぶりなど微塵もない。まるでショバ代をとりたてるチンピラのごとく、丁重ないいまわしのわりには語気鋭くいう。
思わず、斎藤とをかわす。
なるほど・・・。なにかしらの目的があってのことか。ゆえに、子どもらの提案を即座に受け入れ、やってきたわけか。
「旦那方、どちらから参られました?」
俊冬は、やつぎばやに問う。
いっぽうで、俊春は飴売りの商売道具にちかづくと、そこに置いてある椅子っぽい木箱に座ってしまう。
「い、いや。それはしらぬこととはいえ・・・。すぐに挨拶にまいりましょう」
年配のほうの男が応じる。唇を舌でしきりになめている。髪がすっかり後退してしまっている額には、玉のような汗がいくつも浮かんでいる。
『い、いや・・・』とは・・・。おそれいった。フツー、商売をするなら、その土地の顔役なり
「お藤さん……!?私、その方から頂きました」
それを聞いた琴は憐れむように視線を落とした。
「一人息子でございましたから。桜司郎さんに、桜之丞さんの面影を見出したのでしょう。本当に、気のよく利いた孝行息子でしたよ。私ももう一人の息子のように思っておりました」
寂しそうなその響きを漏らすと、fue植髮 琴は咳をする。歌は背を擦り寝室へ向かわせようとした。あまり身体が強くないと云う。琴は振り返ると、優しげな笑みを浮かべた。
「これも何かの御縁ですから。刻の許す限り、ゆるりとなさって下さい」
会釈をすると、琴は寝室へ入っていく。
歌はすぐに戻り、桜司郎の前に座った。
「ふふふ!母上、とても嬉しそうでございました。桜司郎さんのお陰です。これも、桜之丞兄さんのお導きに違いありません」
無邪気に笑う歌を見ていると、陽だまりの中にいるように胸が暖かくなる。桜司郎も釣られて口角を上げた。
「桜之丞さんのこと、良ければ聞かせてくれませんか」
そう言えば、歌は喜んでと話し始める。
下町ならではの生活感、活気、その全てが心を満たしていった。風に誘われるように、どこかの家の庭に植えてある小さな梅の木の香が鼻腔を掠める。
──初めて来た筈なのに、初めてじゃない気がする。どうしてこんなにも懐かしいの。どうして泣きたいような気持ちになるの。
郷愁の念というのはこの様なことを云うのだろうか。理由も分からずに胸がいっぱいになり、鼻の奥が熱い。
やがて、時も経たずに屋敷の中から白髪混じりの女性が出て来た。桜司郎は気配を感じて振り向く。すると、女性は歌と同じようにこれでもかと目を見開いた。
「おうのすけ……。お前さま、生きておられたのですか。にしても、まるで時を止めたかのように見目が変わらないと云うのはどういう事でしょう……。この様なところで立ち話も何です。家へお入りなさいな」
人違いという前に桜司郎は背を押されて室内へ入る。茶を出され、桜司郎は女性──琴と歌の前に正座をして向かい合っていた。
話しを聞いてみると、こうである。
桜司郎によく似た男は"おうのすけ"といい、漢字は桜之丞と書くらしい。近所に住んでおり、この榎本家とは家族ぐるみで親交があった。特にこの歌を許嫁にしようという話しが挙がっていた程である。
だが、十年前の安政の大地震に伴う火事で、人命救助に行くといい飛び出した後、命を落としてしまったという。
───剣術が何よりも好きで、色々な道場へ足を運んでは試合をしていたこと。人と交流して見識を高めると言い、日本各地を回る旅に出ていたこと。正義感が強く、こうと決めたら譲らない性格だったこと。歳が離れていたが、榎本家の次男である と特に仲が良かったこと。
先程、歌から聞いた事が頭の中をグルグルと駆け巡る。彼女は夕飯を作ると云い、厨に立っていた。桜司郎は柱に身を預け、小さな庭を見詰めている。
ふと空を見上げれば茜色の空に、赤に金を織り交ぜたような鮮やかな色彩の細長い雲が浮かんでいた。
──もう試衛館に行かなきゃ。居心地が良いけれど、私は"桜之丞"ではないのだから。
そのような事を思いながらも、疲れの為か眠気に襲われた。抗いきれずに少しだけ、と目を瞑る。その瞼の裏には、神田明神にて浮かんだ男児の姿がいた───
三味線堀の近くで肌の青白くも活発な男児が駆け回っている。目線の主はそれを釜次郎、と呼んだ。
その目線より小さい釜次郎の手を引き、神田明神への道を歩く。
『おれァ、海の向こうの世界が見てみてェ。あー、神田明神様、おれの願いを叶えてくれよ』
幼いながらも、達者な口振りで釜次郎はそう言った。
『はは、神田明神様はよろず屋じゃないんだから』
『神田明神様に祈れば願いは叶うと、おっ母さんが言ってたんだいッ。ちぇっ、そういう